不寛容だった自分。

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「寛容な世の中を作りたい」

 

ぼくはそのことを集中的に発信し続けた時期がある。

「色んな価値観があっていい。人の考え方はそれぞれなんだから、それを許し合おうよ。」

そう思っていた。

 

色んな価値観があっていいとは今でもずっと思っている。

しかし、「人の考え方はそれそれだから、許し合おうよ」という部分が今はかなり揺らいでいる。

 

ぼくは他人に悲しい想いをさせる人を許せない。

特に、人に応援してもらいながら、その応援を無下にし、それに罪悪感を感じない人を許せない。

 

たしかに、ぼくも今までたくさんの人たちに迷惑をかけてきた。

期待も裏切ってきた。

誰かの気持ちを無下にもしてきたのかもしれない。

 

だが、ぼくはそんな迷惑をかけた際に公けの場で謝罪して来たし、ひどい迷惑かけた方には直接会ってキッチリ謝罪してきた。

そうやって自分の迷惑行為と向き合い、罪を償って来た。

 

人に迷惑をかけたなら、ぼくは謝るのが当然だとおもう。

また、人に応援して頂くならその人たちに悲しい思いをさせないように自分のできる力で振舞っていく。(できなかったら、その部分について謝る)

ぼくはそれがとても大事だとおもっていて、そうでない人を許せない。

 

だから、「人の考えはそれぞれだから許し合う」という考えをしてしまうと迷惑をかけても罪悪感を持てない人や他人に悲しい想いをさせる人たちも「それぞれだから」という理由で許さないといけないので、正直、それが難しい。

 

だから、自分は不寛容な人間だと思ったし、もう不寛容でいいとさえ思った。

 

世の中にはさまざまな理不尽がある。

ぼくも理不尽な想いをしてきたし、理不尽な目にあっている人たちをこの目で見てきた。

 

ぼくはその理不尽全てが許せない。

そして、その理不尽は人にやさしくない所から生まれている。

だからこそ、他人に対してやさしくない人たちがすごく許せない。

 

ぼくは特に人に悲しい想いをさせる行為に大きな怒りを感じていて、それに対してはとても不寛容だ。

だが、試行錯誤した結果、それがとても大事なことのようにおもう。

 

「世の中に対して許せないことがある」

そのことを問題意識にして解決に導いていくことが、その人の使命であり、存在意義だと思うから。

それに対して「人それぞれだから」と許してしまったら、もはや生きてる価値なんてない。

 

自分が何に対して不寛容なのか。

それを感じることは、自分のやるべきことを見出すヒントになるのだとおもった。

 

 

ミヤハヤ